明治・大正
明治六年(一八七三)、第三大学区堺県管内中学区河内国第二十八番公立小学校が島泉に創立された時、明教寺の境内と家屋が指定されました。今の高鷲小学校の前身です。明治の末には第二十二代住職慶遵が五枚一組の明教寺絵葉書をつくりました。本堂・境内・太鼓楼・玄関・黒佛の御木像・鳳凰閣及び宝物の一部で、当時としては大変珍しく、法要にお参りした参詣者がしばし求めていったそうです。
大正十二年(一九二三)に阿倍野橋と道明寺の間に待望の大鐡電車が開通しました。それからは明教寺の法要に大阪市内からも多くの参詣者がつめかけ、四月末の黒佛の御木像法要には明教寺の宝物拝観を兼ねたので、遠近各地からの参詣者でにぎわいを見せ、秋の報恩講には夜店がずらりと並ぶほどの盛況でした。