仏陀がこう言ったから私もそうする、というのは決して仏教ではないのです。(ダライ・ラマ)
親鸞聖人がこう言ったから私もそうする、というのは決して真宗ではないのです。」
法話
上田紀行著『がんばれ仏教』の中で、ダライ・ラマの言葉が紹介されていました。
「皆さん、今日はここで『仏教と世界平和』をテーマに会議がもたれていることを嬉しく思います。しかし、私は最初に一つだけ申し上げたいのです。それは私たち仏弟子はなぜ世界平和を 望むのかということです。それは私たちの師であるブッダが世界平和を望んだからでしょうか、 それとも私たち一人ひとりが痛切に世界平和を望んでいるからでしょうか。ブッダが言ったから、 それがブッダの教えだからという理由で行動するのが仏教徒の生き方なのではありません。 私自身がそのことを問い、私自身が確かめ、私自身の言葉で言い表し確信できたら私自身の 行動で示すのが仏教のあり方なのです。ブッダがこう言ったから私もそうする、というのは 決して仏教ではないのです。」
私が本当に世界平和を望んでいるのか?ただ仏陀が言ったから私もそう思うだけでは、 仏教に生きているとは言えません。そこには少しも説得力は無いし、人々に、社会に訴える力は ありません。借り物の言葉でしかないのです。
仏陀の最後の説法である『自帰依自灯明・法帰依法灯明』の教えに反していて、自らを 依りどころにしてはいないのです。仏陀を依りどころとして、他帰依になっているのです。 仏陀を依りどころにするのではなく、仏陀の説かれた法(真理)を依りどころとして、自分の足で 歩んでいくのが仏教です。法を依りどころ、灯明として、私自身が問い、確かめ、自分の言葉で 言い表し、私自身の行動で示すのが仏教のあり方です。
同じように、「親鸞聖人がこう言ったから私もそうする、というのは決して真宗ではないのです」
この言葉は、私自身への戒めであり、私と同じような真宗僧侶への戒めの言葉でもあります。 私自身が真剣に問い、確かめ、歓喜し、慚愧し語っているのではなく、 親鸞聖人がこう言ったから、私もそう思うと、安易に説いてきたことが多かったと思います。
それは親鸞聖人が慶ばれた仏地に樹っていないのです。聖人を依りどころとして、他帰依になり 自帰依になっていないのです。聖人が"法"である如来の本願を依りどころとして、自らの足で 立ち上がられたように、私たち一人ひとりが如来の本願を、お念仏を立脚地として、自ら問い、 確かめ、自分の言葉で語り、行動していかねばいけないのです。
私自身、本当に仏地に樹っているかを常に問うていかねばなりません。その自信の歩みが おのずと教人信になっていくのです。
親鸞聖人がこう言ったから私もそうする、というのは決して真宗ではないのです。」
法話
上田紀行著『がんばれ仏教』の中で、ダライ・ラマの言葉が紹介されていました。
「皆さん、今日はここで『仏教と世界平和』をテーマに会議がもたれていることを嬉しく思います。しかし、私は最初に一つだけ申し上げたいのです。それは私たち仏弟子はなぜ世界平和を 望むのかということです。それは私たちの師であるブッダが世界平和を望んだからでしょうか、 それとも私たち一人ひとりが痛切に世界平和を望んでいるからでしょうか。ブッダが言ったから、 それがブッダの教えだからという理由で行動するのが仏教徒の生き方なのではありません。 私自身がそのことを問い、私自身が確かめ、私自身の言葉で言い表し確信できたら私自身の 行動で示すのが仏教のあり方なのです。ブッダがこう言ったから私もそうする、というのは 決して仏教ではないのです。」
私が本当に世界平和を望んでいるのか?ただ仏陀が言ったから私もそう思うだけでは、 仏教に生きているとは言えません。そこには少しも説得力は無いし、人々に、社会に訴える力は ありません。借り物の言葉でしかないのです。
仏陀の最後の説法である『自帰依自灯明・法帰依法灯明』の教えに反していて、自らを 依りどころにしてはいないのです。仏陀を依りどころとして、他帰依になっているのです。 仏陀を依りどころにするのではなく、仏陀の説かれた法(真理)を依りどころとして、自分の足で 歩んでいくのが仏教です。法を依りどころ、灯明として、私自身が問い、確かめ、自分の言葉で 言い表し、私自身の行動で示すのが仏教のあり方です。
同じように、「親鸞聖人がこう言ったから私もそうする、というのは決して真宗ではないのです」
この言葉は、私自身への戒めであり、私と同じような真宗僧侶への戒めの言葉でもあります。 私自身が真剣に問い、確かめ、歓喜し、慚愧し語っているのではなく、 親鸞聖人がこう言ったから、私もそう思うと、安易に説いてきたことが多かったと思います。
それは親鸞聖人が慶ばれた仏地に樹っていないのです。聖人を依りどころとして、他帰依になり 自帰依になっていないのです。聖人が"法"である如来の本願を依りどころとして、自らの足で 立ち上がられたように、私たち一人ひとりが如来の本願を、お念仏を立脚地として、自ら問い、 確かめ、自分の言葉で語り、行動していかねばいけないのです。
私自身、本当に仏地に樹っているかを常に問うていかねばなりません。その自信の歩みが おのずと教人信になっていくのです。