MYOKYOJI

2007年6月アーカイブ

2007年6月の言葉と法話

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・"ありがたい"の反対は"あたりまえ"です
・あたりまえと思う生活には喜びや感謝はありません


法話
 以前お参りに行った時、ある年輩のお方が、「今朝、目が覚めた時、感動しました。」と話されていました。歳をとられ、いつ死が訪れるかわからない不安を 抱えていられるお方でした。私たちは生きていることが"あたりまえ"と思っているから、朝、目が覚めることもあたりまえです。そこには喜びや感動は少しも ありません。またオシッコがなかなか出なかった方が、やっとオシッコが出た時は感動しましたと話されていました。私たちは目が見えることや、耳が聞こえる ことや、手足が動くこともあたりまえです。それがなくなった時、はじめてそのありがたさに気づくのです。
 星野富弘さんに「あたりまえ」という詩があります。
『こんなすばらしいことをみんなはなぜよろこばないのでしょう。あたりまえであることを、お父さんがいる、お母さんがいる、手が二本あって足が二本ある。 行きたい所へ自分で歩いてゆける。手をのばせば何でもとれる。音がきこえて声がでる。こんなしあわせはあるでしょうか。しかし誰もこれをよろこばない。そ のありがたさを知っているのは、それをなくした人たちだけ。』
 私たちは誰でも馴れてくると、それがあたりまえになってくるのです。そのあたりまえを喜ばしてもらわなければいけないのに、あたりまえと思う生活には喜びや感謝はありません。喜ぶどころか反対に、少しでも思い通りにいかなくなると、すぐに愚痴や不満をこぼしています。
 "ありがたい"ということは、有ること難しということです。いまここに生きていることは、不思議なご縁によって生かされていることなのです。多くの方に 迷惑をかけ、支えられて生かされているのです。少しでもその事実に気づき感謝して生きる人間になりたいものです。現代人は自分の都合でしか見えないから、 ますます"ありがたい""おかげさま"と思えなくなっています。
 あるお婆さんが、孫に「食べ物を粗末にすると目が見えなくなるよ」と話した時、孫は、「お婆ちゃん、それは昔に言ったことでしょう。古い、古い。」と全く聞く耳をもたなかったそうです。
 この目が見えなくなるということは、実際に肉眼の目が見えなくなるということではありません。それは、ご恩が、おかげが見えなくなってしまうことをいっ ているのです。いのちの事実が見えなくなることを教えているのです。そうですからよく仏法を聴聞し、その鈍くなっている感性をもっと磨いていきましょう。

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