MYOKYOJI

2008年2月の言葉と法話

|
・まんまんちゃん いつも見ているよ
・仏さまから私を見る眼を育てよう、仏さまの眼はごまかせません
・いつも私を見ている人がおり、いつも私を照らしている人がいるので私はくじけずに今日をあるく


法話
 現代人は「仏さまに見られている」という感性をまったく失ってきました。以前はよく「まんまんちゃん見ているよ」とか「お天道さまが見ているよ」という 言葉を耳にしました。最近はほとんど聞かなくなりました。現代人は大いなるいのちの働きに支えられている、仏さまに見られているということを忘れてきまし たから、「人が見てなかったら、何をしてもいい」という風潮が生まれてきました。
 私はお参りに行ったとき、「人はごまかせても、仏さまはごまかせない。人はだませても仏さまはだませない」ということを子供さんに是非に伝えて下さいと お願いしています。仏さまの眼は決してごまかせません。現代人は「ごまかせない」ものをもっていないのです。子供だけではなく大人も地位の高い人でも同じ です。人が見ていなかったら、警察に捕まらなかったらという意識が蔓延しています。戦後、日本の復興のため経済至上主義で進んできました。その結果日本人 は損得中心の打算的になり、自分さえ良かったらという自己中心になってきました。昨年は偽装事件がよく報道されましたが、これもまだ氷山の一角でしょう。
 先日NHKの「プロフェッショナル」という番組に、歌舞伎の坂東玉三郎が出演していました。司会者が「歌舞伎の目標はありますか。」という質問に、「目 標はありませんが、いつも天から見られているという感じがします。天はごまかせません。天にごまかさないように演じることです。」ということを話していま した。花の如く、そのままで嘘、いつわりのない演技を目指しているのです。
 相田みつをさんに「恥ずかしい私」という詩があります。「あじさいを見ている私、あじさいに見られている私、花に見られて恥ずかしい人間の私。」何故花 に見られて恥ずかしいのでしょうか?花は人が知ろうが知るまいが、ありのままで、ひとすじの気持ちで咲いています。その花に見られたら私たちは恥ずかしい です。私たちはすぐに人に良いように見られたい認めてもらいたい、ほめられたいという気持ちが働き、自分を飾ったり、ごまかしたり偽っています。やっかい なことに飾っている、ごまかしている自分になかなか気づかないのです。気づかせてくれる働きに会うことによって気づかされるのです。花に見られて恥ずかし いように、仏さまに見られたらごまかせません。恥ずかしいです。ありのままの私の姿が明らかになるのです。それ故「仏さまから私を見る眼」を育てていかな ければいけないのです。
 仏さまの智慧の眼は厳しいですが、同時に、いつも優しい慈悲の眼で見ていてくださっています。決して見捨てることせず、分けへだてすることをせずあたた かく照らしつづけてくださっています。大地のようにどんな時でも私を支えてくださっています。いつも私を見ている人がおり、いつも私を照らしている人がい るので、くじけずに歩いていくことができるのです。 合掌

月別 アーカイブ