MYOKYOJI

2008年3月アーカイブ

2008年3月の言葉と法話

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・生きるということは自分で自分をつくっていくこと。今の私は、いままでに私が私をつくってきた作品です。
・大地が私をそのまま支えているように、仏さまはいつも私をそのまま認めています。


法話
 東井義雄先生の詩に「自分は自分の主人公世界でただ一人の自分をつくっていく責任者」とあります。私たちが生きるということは、多くのいのちに支えられ 生かされているのです。自分では気づかないが、いろいろな人に迷惑をかけ、傷つけながら生きているのです。またこれまでに多くの人に教えられ導かれて生か されてきたのです。私たちはこのいのちの事実に気づいているでしょうか。感謝することを忘れ、周囲に流され、煩悩のままに自我中心に生きてないでしょう か。私たちは他のものを依りどころにしてはいけないのです。どこまでも自分を依りどころにしなければいけません。お釈迦さまの最後の説法にあるように「自 帰依、自灯明」すなわち自らを依りどころにし、自らを灯として、他のものを依りどころ、灯としてはいけないのです。この教えは人間の自立を教えています。 いくら小さい、弱い足であっても、しっかりと自分の足で立ち力強く生きることを教えています。自分以外に自分をつくっていく人はいないのです。自分は自分 の主人公であり世界でただ一人の自分をつくっていく責任者です。
 私は真に自立できる人になりたいです。また、いのちの事実に気づき感謝できる人、優しい人になりたいです。世間の眼を気にしたり、他のものを依りどころ にして生きると、知らず知らずに自分を飾り、偽り、ごまかし、自立ではなく何かをしてもらうという依存心が強くなり、思い通りにいかないと、愚痴や腹だち の生活となっています。今まで私たちはどんな人生の歩みをしてきたのでしょうか。今の私は、いままでに私が私をつくってきた作品です。これからどんな作品 をつくっていきますか。私の老いていく姿は私がそれまでに歩んできた作品なのです。お釈迦さまの最後の説法の「自帰依、自灯明」の次に「法帰依、法灯明」 とあります。すなわち法を依りどころとし、法を灯とし、他のものを依りどころ、灯としてはいけない。法を生きる土台として自分の足で自立して生きることを 教えているのです。
 私たちは何をいのちの根源としていますか、また何を生きる立脚地としていますか。人間は本来いのちの根源をもっていないのです。それ故、縁ひとつによっ て振り回されているのです。状況次第でどうなるかわかりません。一寸先が闇の世の中ですから、確かなものを生きる立脚地としなければいけないのです。念仏 とは、阿弥陀如来が、「私があなたたちのいのちの根源となります」というよび声です。
 大地はどんな時でも、うれしい時、悲しい時、悔しい時、いつでもそのまま私を支えているように、阿弥陀如来は、分けへだてせず、選ぶことをせず、この私 をそのまま認め、私の生きる居場所、立脚地、いのちの根源となってくださっているのです。仏地に樹つ人生を力強く歩んでまいりましょう。             合掌

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