MYOKYOJI

2008年9月の言葉と法話

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・いのちは平等であり 動物のいのちも 人間のいのちも いのちの重さに変わりはないのです
・「いただきます」とは いのちを いただくことです


法話
 スペイン旅行へ行った時、闘牛観戦が日程に組み込まれていた。行く途中、バスの中で日本人の現地ガイドが熱く熱く、闘牛について語っていた。「闘牛はスペインの文化です。スペインが長い間培ってきた文化です。スポーツではありません。闘牛に関するニュースはスポーツ欄に載らず文化欄に載ります。生と死を考える神聖な場所です。牛と闘牛士の命がけの対決です。闘牛士も命を賭けています。命をかけなければ牛に対して失礼です。どちらが強いをかを決めるのではない、人間と牛のいのちがけの対決です。命がけで戦って、その中で大いに人々に感動を与えるのが闘牛なんです。牛も頑張らなければ、すぐに「牛かえろ」という声が上がります。牛が頑張れば、死んでいく牛に拍手が送られます。闘牛士も頑張らなければすぐにブーイングです。15分内に殺さなければ高額な罰金が科せられます。人気闘牛士は8億の年収をもらっています。素晴らしい命と命の対決です。ぜひ興味を持ってごらんください。」
 この熱い話を聞いて、最初はあまり関心はなかったが是非しっかりと見てみたいと興味がわいてきました。しかし見終わった感想は、頭が重くなり、もう二度と見たくないと思った。牛と人間の命がけの対決だと思っていたがそうではなかった。牛を徹底的に弱らせて、最後に闘牛士がとどめをさすのです。最初元気な牛が闘牛士を追いかけます。その時きれいに身をこなしてかわす姿に拍手が起こります。確かにカッコいいです。しかしかわすことができなければ隠れ場に逃げるのです。闘牛場には四か所隠れ場があります。そこ逃げたら牛は襲ってきません。牛は賢い動物で、そこに襲うと自分の角が折れることを知っているそうです。五分ぐらい経つとトランペットが鳴り目かくしされた馬に乗った騎士が長い槍をもって登場します。その騎士が馬上から長い槍で、牛の背中の急所を何度も突くのです。血が溢れてきます。もうここで牛の戦力は弱っています。そこから頑張って戦う牛がいい牛だそうです。観衆に感動を与えるのです。これをしなければ牛と人間は対等に対決できないのです。そこから牛を走らせ走らせて闘牛士が、飾りのついた派手な二つ一組の銛(もり)を何度も打っていくのです。この時一瞬でも油断すると大変です。角が内臓に刺さると即死する場合もあるそうです。そして最後に赤いマントをもった闘牛士の登場です。何度か走らせ赤いマントで身をかわします。かわし方が上手ければ大きな拍手が起こります。もう牛は相当弱っています。闘牛士が背を向けても襲ってきません。赤いマントだけには少し反応します。でもまだ牛は生きよう生きようとしています。闘牛士が牛の頭を下げさせ、機会をねらって剣で頭の下の急所に差し込みます。でも牛は一回ではなかなか倒れません。何度か突きやっと倒れます。最後に短い剣で顔の急所を突き絶命です。亡くなった牛はすぐに解体され、食肉として回されるそうです。
 ある人は食文化の違いと言っていました。「屠殺場で殺すか、みんなの前で殺すかの違いで殺して食べることに違いはない。その中で人々に感動を与えてくれるのです」。しかしこの意見はどこまでも人間の勝手な考えです。闘牛は人間が楽しむための見世物、ショーです。キリスト教では動物は人間の従属物であり人間が生きるために食べられろものと教えていると聞きましたが、仏教では人間も牛もいのちの重さに変わりはないと教えています。いのちへの畏敬、いのちに対しての厳粛さは決して忘れてはいけない。私も牛肉は大好きです。よく食べます。牛のかけがえのない命をいただいているのです。必ず「いただきます」と合掌して食べねばなりません。
 闘牛観戦は、確かに生と死を考える場であることには間違いはなかったです。
合掌
 

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