MYOKYOJI

2008年10月アーカイブ

今月の言葉と法話

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  常に居ますを仏という  此処に居ますを仏という

          共に居ますを仏という  この仏を南無阿弥陀仏という

今月の法話

 阿弥陀如来は、いつも私たちと一緒です。いつも見ていてくださいます。いつも拝んでいてくださいます。私が拝まない時も、いつも拝んでいてくださっているのです。私はよく忘れていますが、忘れていても、逃げていても、反抗しても、いつも見ていてくださり、拝んでくださっているのです。気づいたらお礼の、感謝のお念仏を申しましょう。どんな時でも私を支え、抱き、照らしてくださっています。私たちは阿弥陀さまのお慈悲に包まれ逃げることが出来ないのです。阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏と声の仏さまとなり、いつもよびかけ、支え、気づき目覚めさせてくださっているのです。うれしい時も、悲しい時も、さびしい時も、腹が立った時も、お念仏を申して生きていきましょう。

 ご和讃に「煩悩にまなこさえられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」とあります。私たちはいつも自我のメガネ、煩悩の眼で見ているから、仏さまに見られている、拝まれている、照らされていることに気づきません。しかし仏さまは休むことなく私たちを照らし続けてくださっているのです。

 私たちはよく自分一人が我慢している、誰にも迷惑をかけていない、自分一人の力で生きていると思いあがっています。しかし実際は多くの人に我慢され、迷惑をかけ、支えられて生かされているのです。それが見えないのです。だから争ったり悩んだり苦しむのです。あるお祖父さんが、三人の孫の面倒を二日間見なけれならなくなった時、一日で疲れたので二日目の朝、「今日は天気がいいので側の公園に遊びに行きなさい」と言うと、下の二人の孫は遊びに行ったが、上の小学二年のお姉ちゃんは遊びに行かないので、少し強く「お姉ちゃんも遊びに行きなさい」と言うと、目に涙をためて「私も遊びに行きたい。でも私は遊びに行けないもん」と言ったそうです。「どうして」と聞くと、「だって私はお祖父ちゃんの面倒をみなければいけないもん」と答えたそうです。大変驚いたそうです。「いままで自分が面倒をみなければいけないしか頭になかった。こんな小さな子からも面倒を見られていたのですね、迷惑をかけ、支えられていたのですね」と、しみじみと話されていました。生きるということは目には見えないが多くの人に支えられ迷惑をかけ我慢され生かされているのです。たとえ無人島で一人で暮らしていても、大いなるいのちの働きの中でいかされているのです。

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