また一つ年をいただき み仏のみ名を聞けよの いのちなりけり
恥ずかしい私が 恥ずかしくないことが出来ると思っている 愚かしさ
法話
あけましておめでとうございます。あけまして南無阿弥陀仏。また一つ年をいただきました。お念仏を生きるよりどころ、支えとして歩まさせていただきたいと思っています。お念仏は、真実の世界・大いなるいのちの世界からのよび声です。お念仏を忘れると、私たちはどこまでも自我中心にしか生きれません。すぐに自我の思い通りにしたいと我を張っています。思い通りにいかないと腹を立て愚痴をこぼしています。私たちは煩悩具足の凡夫です。誤解されては困るのは、仏教を聞けば、念仏に遇えば煩悩がなくなるのではありません。煩悩は無くなりません。自我・我執がなくならないように煩悩も無くなるものではありません。人間にとって恥ずかしくない生き方は出来ないと思います。
恥ずかしい私が、仏教を聞けば恥ずかしくないことが出来ると思っている愚かしさです。どこまでも煩悩具足の身が、煩悩が無くなり少しでも良い人間立派な人間になれると思っているのです。いくら修行を積んでも、仏教を聞いても、縁一つでどうなるかわかりません。長年仏教を聞いた人が、「私は長年仏法を聞いたので、お陰で腹を立てなくなりました」と言うと、ある人が「嘘をつけ」というと、腹を立てて帰ったそうです。人間は自我を肯定したいのです。そうですから努力すれば恥ずかしくないことが出来ると思っているのです。真実に遇えば、私の不実が知らされるだけです。真実を生きる土台・立脚地として生きるのです。浄土の真実を宗として生きるのが浄土真宗です。