MYOKYOJI

2008年12月アーカイブ

今月の言葉と法話

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また一つ年をいただき み仏のみ名を聞けよの いのちなりけり

恥ずかしい私が 恥ずかしくないことが出来ると思っている 愚かしさ

 

法話

 あけましておめでとうございます。あけまして南無阿弥陀仏。また一つ年をいただきました。お念仏を生きるよりどころ、支えとして歩まさせていただきたいと思っています。お念仏は、真実の世界・大いなるいのちの世界からのよび声です。お念仏を忘れると、私たちはどこまでも自我中心にしか生きれません。すぐに自我の思い通りにしたいと我を張っています。思い通りにいかないと腹を立て愚痴をこぼしています。私たちは煩悩具足の凡夫です。誤解されては困るのは、仏教を聞けば、念仏に遇えば煩悩がなくなるのではありません。煩悩は無くなりません。自我・我執がなくならないように煩悩も無くなるものではありません。人間にとって恥ずかしくない生き方は出来ないと思います。

 恥ずかしい私が、仏教を聞けば恥ずかしくないことが出来ると思っている愚かしさです。どこまでも煩悩具足の身が、煩悩が無くなり少しでも良い人間立派な人間になれると思っているのです。いくら修行を積んでも、仏教を聞いても、縁一つでどうなるかわかりません。長年仏教を聞いた人が、「私は長年仏法を聞いたので、お陰で腹を立てなくなりました」と言うと、ある人が「嘘をつけ」というと、腹を立てて帰ったそうです。人間は自我を肯定したいのです。そうですから努力すれば恥ずかしくないことが出来ると思っているのです。真実に遇えば、私の不実が知らされるだけです。真実を生きる土台・立脚地として生きるのです。浄土の真実を宗として生きるのが浄土真宗です。

12月の言葉と法話

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今月の言葉

         あてはずれ あてはずれ あてはずれつづけて あてはずれてもいい 大地に立つ(浅田正作)

法話

    他力本願とは、世間では誤解されて使用されています。他人まかせや依存主義の意味で使われています。他力本願とは人間の本当の自立を教えているのです。阿弥陀如来が、必ず私たちを救うと誓い、私たちの生きる依りどころ、支え、大地となってくださっているのです。私たちが逃げても、背いても、反抗しても決して見捨てない、どんなことがあっても必ず救うと願い働いてくださっているのです。私が必ずあなたを支えるから、小さな弱い足であっても、他人をあてにせず、比べることをせず、自分の足で立ち上がって生きなさいと、よび続けてくださっているのです。

 私たちの人生は思い通りにはいきません。あてはずれつづけています。思い通りにしようとするから苦しむのですが、すぐに自我が思い通りにしたいと願い、それにかかり果てています。人間は自我が、くだかれてくだかれて成長していくのに、すぐに思いを固め、自我に固執し、思いどおりにしようとして苦しんでいます。本当にあてはずれあてはずれの繰り返しです。

 阿弥陀如来は、そのあてはずれ続けている私たちを見捨てることなく、大地となって支えつづけてくださっているのです。大地は、悲しい時も苦しい時もさびしい時も、失敗した時も、世間から白い眼で見られている時も、分け隔てせず、えらぶことをせず、くらべることをせず、どんな時もそのまま支えてくれています。いつも私に居場所を与えてくださっているのです。うれしいです、安心です、大きな喜びです。あてはずれてもいい大地に立って生きましょう。

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