MYOKYOJI

2009年5月アーカイブ

5月の言葉と法話

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あたりまえと思っていたことが あたりまえでなかったと あたりまえが喜べる

念仏とは阿弥陀仏の大いなる世界に帰れというよび声です そのよびかけに応えなかったら小さなエゴ(我)の世界でしか生きれない

 法話

人間はなれてくるとすぐにあたりまえになる。生きていることも目が見え耳が聞こえ手足が動くこともあたりまえと思っています。それが不自由になって初めてありがたさを感じるのです。あたりまえではないのです。おかげさまなのです。生かされているのです。あたりまえの反対語はありがたいです。仏法を聞くとはありがたい話を聞くのではありません。今私が生かされているありがたい事実を気づかせていただくのです。そうすると今まであたりまえと思っていたことが、あたりまえでなかったと、あたりまえが喜べるようになれるのです。

「自我・我執おれと一生付き合う相手」と言われるように、私たちはどこまでも自我中心に生き、自我のメガネをかけてあらゆるものを見ていますから、ありのままをありのままに見ることができず、自分の見たいようにしか見ていないのです。それ故他人と争い悩み苦しみ、生かされていることもあたりまえとしか思えないのです。その私たちに阿弥陀如来は南無阿弥陀仏となり、阿弥陀仏の広大無辺な大いなる世界に帰れとよび続けてくださっているのです。そのよび声が念仏です。そのよびかけに応えなかったら、私たち人間は小さなエゴ(我)の世界でしか生きれないのです。空しく淋しく人生を送るのです。井の中の私、仏の大海を知らずです。

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