MYOKYOJI

2009年11月アーカイブ

12月の言葉と法話

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タスカッテミレバタスカルコトモイラナカッタ ワタシハコノママデヨカッタ (竹部勝之進)

今日一日腹を立てなかったのは私の心が善かったからではない 腹を立てる縁がなかっただけです

法話

人間は縁次第でどうなるかわかりません。親鸞聖人が「さるべき業縁が催せば如何なる振舞いもすべし」と述べられているとおりです。腹を立てようと思っていても縁がなければたてられません。逆に腹をてまいと思っていても縁が来れば腹を立てるのです。私たちはどこまでも煩悩具足の愚かな身ですから。この煩悩を無くそうと思っても無くなりません。仏法に遇うとは、煩悩いっぱいの救われない私の姿が明らかになるのです。仏教とは救いの発見ではなく救われない自己の発見です。この私を阿弥陀如来は光の仏となり、照らし続け気づかせて下さるのです。そして闇を破りいのちに輝きを与えて下さるのです。仏法に遇うまでは助けて欲しいと願っていますが、仏法に遇えばワタシハコノママデヨカッタと喜べるのです。助けて下さいと願うのではありません。「助かってくれよ」との如来のよび声におまかせするだけです。

11月の言葉と法話

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阿弥陀如来とは いつも私たちを照らしているほとけさまです

仏の光は 私たちに煩悩があるから光があると気づくのです 光は光だけではわかりません

  法話

阿弥陀如来は、私たちが煩悩具足の凡夫と見抜いていられます。しかし私たちは自分が煩悩具足の凡夫と思っていません。なかなかそう思えないのです。人間の眼は他人の非が良く見えても、自分の非はわからないものです。それゆえ阿弥陀如来は、自ら光となり、私たちを照らし続けていられるのです。その光に照らされ、わが身が愚かな身であり煩悩具足の凡夫と気づかされるのです。煩悩があるから光があると気づくのです。光は光だけではわからないのです。  私たちが仏さまに遇えるのは煩悩があるからです。煩悩があるから救われるのです。煩悩がなければ救われないのです。 煩悩がなくなれば仏さまと縁が切れるのです。煩悩がなくなれば仏法は用事ありません。私たちが煩悩具足の凡夫であるから阿弥陀さまは、永遠の光の仏さまとなって私たちを照らし続けていられるのです。 私たち凡夫は阿弥陀さまにマカスしかないのです。

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