如来とは、真実そのものの はたらきです。
真実とは、私の方から求めるのではない。真実(如)の方から来て、気づかせてくださるのです。
念仏に生きるとは、如何に私がいのちに背いた生き方をしているかに気づくことです。
法話
「真実というは、すなわちこれ如来なり。如来はすなわちこれ真実なり」と言われるように、如来は真実そのもののはたらきです。真実すなわち如が私の方に来てくださっているのです。我々に何が真実かを気づかせてくださるはたらきです。真実に遇えば、如何に私たちが真実にそむいているかが明らかになります。親鸞聖人はその自分の姿を、「虚仮不実の凡夫」と告白されています。真実とか如来は、私たちの方から求めたり、捕まえたりするのではなく、真実・如来の方から、私たちによびかけ照らしだしてくれるのです。そのはたらきに遇えば、如何に私たちが真実のいのちに背いているかが知らされます。いま私のいのちが生かされていることは、不思議なこと・有り難い(有ること難い)こと・多くのいのちに支えられ迷惑をかけていかされているのに、少しも気づかない、すぐ忘れていrます。いまいのちがある、眼が見え、手足が動く、食事ができること、ほとんど「あたりまえ」としか思っていません。「みんな違ってみんないい」のに、そんな見方が出来ません。すぐに比べ、分け隔てし、差別をしています。どこまでも自分中心に見て、ありのままをありのままに見ることが出来ません。他人の非が良く見えても自分の非は見えません。その自分の方から、如来を求めても、自分の都合でしか見ようとしません。その私たちを救おうと如来の方から名号・光明となり、呼び覚まし照らしだしてくださるのです。聴聞を通して、この如来のはたらきに出遇っていきましょう。