MYOKYOJI

2011年4月アーカイブ

5月の言葉と法話

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浄土真宗の真髄を伝えることが、社会貢献の根本です。(大谷光真門主)

 法話

 仏教はキリスト教に比べて、社会貢献をしていないということがよく言われてきました。現代は少しづつですが仏教も色々と社会貢献をするようになってきました。多くの住職はそれぞれ何かしなければと思っています。先日の『本願寺新報』の中で、ご門主が「浄土真宗の真髄を伝えることが、社会貢献の根本です」とありました。私はこの言葉に大変感動しました。本当にそうだ、浄土真宗の真髄を伝えていくことこそ念仏者の社会貢献と思いました。このことが根底になかったら、いくら運動しても浸透しないのです。一部の人たちだけの運動になってくるのです。本願の目的は「如来の作願をたずぬれば、苦悩の有情をすてずして、回向を首としたまいて、大悲心を成就せり」とあるように苦悩の有情を救うことです。苦悩している人々を救うために本願は起されたのです。ではどうしたら救うことが出来るかと如来は長い長い間思案され、念仏となられよび続けてくださっているのです。お念仏でなければ、生死の苦海に久しく沈んでいる苦悩の有情を救うことが出来ないのです。親鸞聖人が42歳の時、佐貫という所で自然災害や飢饉で苦しんでいる人を救おうと千回の三部経読誦を願われましたが、すぐに間違いに気づかれ止められました。如来の大悲を伝えることが、すなわちお念仏を伝えることこそが仏のご恩に報いることであると思い直されたのです。 お念仏に遇うということは、生きる力が身についてくるのです。東日本大震災で大津波に遇いながら、見事に満開のの花を咲かせた桜の木のように、生きる土台がしっかりするのです。現実は苦悩の中にありながらいのちが輝くのです。 ただ現代は浄土真宗の真髄が説きにくい時代になっているし、また苦悩している人々に真髄を伝えていないのです。どうしたら伝わるかを悩まなければいけない。また僧侶一人ひとりが、お慈悲に遇い、お慈悲の心を持って如来の使いとして、それぞれ自分の出来ることを実践しなければならないのです。どこまでも苦悩の有情を救うことが浄土真宗の目的です。

4月の言葉と法話

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縁起とは、ともに助け合って生きることです。

慈悲とは、他者の苦しみ悲しみを、自分の苦しみ悲しみとすることです。

 法話

 3月11日東日本に未曾有の大地震、津波が起こり多くの方が被災されました。大変悲しい苦しい辛いことですが受けとめていくしかありません。この大震災を日本人全体で受けとめ、心を一つにして復興に向けて協力し支え合っていかなければいけません。またこの震災が、いのちを見つめる機縁となればと願います。今日の日本人は、子供の虐待、年金詐欺、食品偽装などに見られるように、いのちを損なう事件が続発していました。拝金主義になり、損得中心で打算的になり、ますます自己中心になりいのちを見失なっていました。人生何が起こるかわかりません。一寸先は闇です。かけがえのないいのちです。人間が生きるということについて何が大切かを見つめる機縁となることを願います。仏教の中心思想である縁起ということは、何一つとしてそれ自体で存在するものはなく、すべて縁起により存在しているのであり、お互いがお互いを支え合って存在していることを教えています。人間は日々縁起に背いて生きています。自分一人の力で生きていると思いあがっています。生きるということはどれほど多くの働きに生かされて生きているのです。いのちの事実に気づいてほしいです。縁起に生きるということはともに助け合って生きることです。そこから慈悲が生まれてくるのです。他者の苦しみ悲しみは、自分の苦しみ悲しみとなるのです。他者の苦しみ悲しみは他人事ではないのです。何とかせずにおれないと我が苦しみ悲しみとなるのです。自分の出来ることを精一杯させていただくのです。朋に生きるのです。

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