仏の姿を拝むのではない。仏の心を拝むのです。
無知は教えられれば知ることができるが、無明は知っていてもどうにもならないことです。
法話
仏像の姿は、仏の働きを形に表わしているのです。仏像を拝むのではなく、仏の姿を通して、仏の心を拝むのです。浄土真宗の阿弥陀如来の姿は立像です。座っている仏像は一つもありません。そして前かがみのお姿が多いです。よーいドンの姿です。これはいつでもどこでもどんな時でも私たちを必ず救うという仏さまのはたらきを形に表わしているのです。私たちが逃げても、背いても、逆らっても決して見捨てないという阿弥陀さまの願いを表わしているのです。仏像の姿を通して、仏の心を拝むのです。 無知とは知らないことですから、教えられれが知ることができますが、無明とは知っていてもどうにもならないのです。身を煩わし心を悩ます煩悩を無くせと言われてもどうにもなりません。嘘をいってはいけない、悪口や愚痴は言ってはいけないと知っていても、縁に触れ嘘を行ったり悪口や愚痴を言っています。それ故私そのものが、無明なる存在であると知るべきです。その私をいつも如来の光明が照らし続けてくださっているのです。 「愚痴の闇路で暮らせしものを、ふだん照らしの身となりて」(お軽さん)