MYOKYOJI

2014年2月アーカイブ

3月の言葉と法話

|

信心とは、私が仏を信じる心ではない。仏のまことの心が私に至り届いたことです。

私が疑っても疑っても疑いきれない真実との出遇い、それが信心です。

法話

浄土真宗では、信じています という自分の心を、信心とは言いません。自分の心で信じていますというのは、自分の都合やハカライで信じているのであり、まだ疑っているのです。本当には信じていないのです。結果次第でどうなるかわかりません。人間の心は、コロコロして状況次第でどう変わるかわかりません。虚仮不実です。本来信とは、自分の方から信じるのではありません。確かなもの・決して裏切らないもの・安心できるものに遇うことにより生まれるものです。子供が親を信じるのではありません。親の変わらぬ愛情が信じさすのです。生徒が先生を信じるのではありません。先生の人柄・人格が生徒を信じさすのです。同じように、私たちが仏を信じるのではありません。仏の決して変わらないまことの心が私に至り届き、信じさせてくださるのです。それ故信心とは、自分で信じるのではなく、阿弥陀さまから信じさせていただくものです。信心とは阿弥陀さまからたまわるものです。人間は最初は目に見えない、色も形もない阿弥陀さまに疑いでいっぱいです。それが聴聞を通して、私の疑いの心を阿弥陀さまのまことの心が破ってくださるのです。「疑いはれたが信心じゃ」です。私の中に阿弥陀さまのまことの心をいただくのですから、どういう境遇になっても生き抜く力をいただくのです。それが信心です。

2月の言葉と法話

|

いつでも どこでも どんな時でも 私が私であってよかったと いえるあなたになれと 喚んで下さるかたがある

法話

この言葉を今年の年賀状でもいただいたのですが、この言葉は40歳という若さでがんで亡くなったお母さんが、まだ幼い子供たちに書き残されたメッセージです。お母さんは子供たちに「この世に生まれてよかったといえる自分になってください。それは私が私であってよかったといえる私になることだと思います。」と書き残されています。阿弥陀様はいつもお念仏となって「私が私であってよかったといえるあなたになれ」とよび続けてくださっています。そのよび声を聞いてくださいと願われているのです。私たちは周りの目を気にして、よく自分を見失っています。うぬぼれたり・見下したり・背伸びしたり・飾ったり・見栄を張ったり・卑下したりして生きています。阿弥陀さまはいつも「そのままのあなたでいいんだよ」と私を認めてくださっています。よび声が私に届くと、はっと自分が取り戻せます。安心感が生まれます。現実は全く変わっていないのに、私が私であってよかったと喜び、生きる自信が生まれてくるのです。

月別 アーカイブ