MYOKYOJI

3月の言葉と法話

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信心とは、私が仏を信じる心ではない。仏のまことの心が私に至り届いたことです。

私が疑っても疑っても疑いきれない真実との出遇い、それが信心です。

法話

浄土真宗では、信じています という自分の心を、信心とは言いません。自分の心で信じていますというのは、自分の都合やハカライで信じているのであり、まだ疑っているのです。本当には信じていないのです。結果次第でどうなるかわかりません。人間の心は、コロコロして状況次第でどう変わるかわかりません。虚仮不実です。本来信とは、自分の方から信じるのではありません。確かなもの・決して裏切らないもの・安心できるものに遇うことにより生まれるものです。子供が親を信じるのではありません。親の変わらぬ愛情が信じさすのです。生徒が先生を信じるのではありません。先生の人柄・人格が生徒を信じさすのです。同じように、私たちが仏を信じるのではありません。仏の決して変わらないまことの心が私に至り届き、信じさせてくださるのです。それ故信心とは、自分で信じるのではなく、阿弥陀さまから信じさせていただくものです。信心とは阿弥陀さまからたまわるものです。人間は最初は目に見えない、色も形もない阿弥陀さまに疑いでいっぱいです。それが聴聞を通して、私の疑いの心を阿弥陀さまのまことの心が破ってくださるのです。「疑いはれたが信心じゃ」です。私の中に阿弥陀さまのまことの心をいただくのですから、どういう境遇になっても生き抜く力をいただくのです。それが信心です。

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