MYOKYOJI

1月の言葉と法話

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名号なくして称名なし

法話

 称名とは仏の名を称えることですが、自分の都合で、ハカライで称えるのではありません。なぜ私たちが念仏を称えるのか? 阿弥陀如来が私たちの器量を見抜いて、どうすれば救うことができるかを長い長い間思惟されて、阿弥陀如来自身が南無阿弥陀仏という名号になられたのです。これ以外煩悩いっぱいの私たちが救われていく道はないと気づかれたのです。煩悩を持ったまま、そのままの私を救うしか救われないからです。名号とは仏のよび声です、名のりです。「お願いだからわが名を称えておくれ」「必ず救う、決して見捨てない」とあらゆる功徳を名号に込めて、叫んでいられるのです。私たちが念仏を称える称名は、名号に応えたものです。「み仏をよぶわが声はわが声ながら尊かりけり」です。私の口から仏さまが出てくださるから「わが声ながら尊かりけり」です。「弥陀回向のみ名なれば、功徳は十方にみちたまふ」です。私が称えるのではありません。阿弥陀さまが称えさせてくださるのです。私が称えるという「私」が入れば、念仏が念仏で無くなるのです。どこまでも他力の念仏は、名号なくして称名なしです。

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