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今月の言葉と法話の最近のブログ記事

2008年9月の言葉と法話

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・いのちは平等であり 動物のいのちも 人間のいのちも いのちの重さに変わりはないのです
・「いただきます」とは いのちを いただくことです


法話
 スペイン旅行へ行った時、闘牛観戦が日程に組み込まれていた。行く途中、バスの中で日本人の現地ガイドが熱く熱く、闘牛について語っていた。「闘牛はスペインの文化です。スペインが長い間培ってきた文化です。スポーツではありません。闘牛に関するニュースはスポーツ欄に載らず文化欄に載ります。生と死を考える神聖な場所です。牛と闘牛士の命がけの対決です。闘牛士も命を賭けています。命をかけなければ牛に対して失礼です。どちらが強いをかを決めるのではない、人間と牛のいのちがけの対決です。命がけで戦って、その中で大いに人々に感動を与えるのが闘牛なんです。牛も頑張らなければ、すぐに「牛かえろ」という声が上がります。牛が頑張れば、死んでいく牛に拍手が送られます。闘牛士も頑張らなければすぐにブーイングです。15分内に殺さなければ高額な罰金が科せられます。人気闘牛士は8億の年収をもらっています。素晴らしい命と命の対決です。ぜひ興味を持ってごらんください。」
 この熱い話を聞いて、最初はあまり関心はなかったが是非しっかりと見てみたいと興味がわいてきました。しかし見終わった感想は、頭が重くなり、もう二度と見たくないと思った。牛と人間の命がけの対決だと思っていたがそうではなかった。牛を徹底的に弱らせて、最後に闘牛士がとどめをさすのです。最初元気な牛が闘牛士を追いかけます。その時きれいに身をこなしてかわす姿に拍手が起こります。確かにカッコいいです。しかしかわすことができなければ隠れ場に逃げるのです。闘牛場には四か所隠れ場があります。そこ逃げたら牛は襲ってきません。牛は賢い動物で、そこに襲うと自分の角が折れることを知っているそうです。五分ぐらい経つとトランペットが鳴り目かくしされた馬に乗った騎士が長い槍をもって登場します。その騎士が馬上から長い槍で、牛の背中の急所を何度も突くのです。血が溢れてきます。もうここで牛の戦力は弱っています。そこから頑張って戦う牛がいい牛だそうです。観衆に感動を与えるのです。これをしなければ牛と人間は対等に対決できないのです。そこから牛を走らせ走らせて闘牛士が、飾りのついた派手な二つ一組の銛(もり)を何度も打っていくのです。この時一瞬でも油断すると大変です。角が内臓に刺さると即死する場合もあるそうです。そして最後に赤いマントをもった闘牛士の登場です。何度か走らせ赤いマントで身をかわします。かわし方が上手ければ大きな拍手が起こります。もう牛は相当弱っています。闘牛士が背を向けても襲ってきません。赤いマントだけには少し反応します。でもまだ牛は生きよう生きようとしています。闘牛士が牛の頭を下げさせ、機会をねらって剣で頭の下の急所に差し込みます。でも牛は一回ではなかなか倒れません。何度か突きやっと倒れます。最後に短い剣で顔の急所を突き絶命です。亡くなった牛はすぐに解体され、食肉として回されるそうです。
 ある人は食文化の違いと言っていました。「屠殺場で殺すか、みんなの前で殺すかの違いで殺して食べることに違いはない。その中で人々に感動を与えてくれるのです」。しかしこの意見はどこまでも人間の勝手な考えです。闘牛は人間が楽しむための見世物、ショーです。キリスト教では動物は人間の従属物であり人間が生きるために食べられろものと教えていると聞きましたが、仏教では人間も牛もいのちの重さに変わりはないと教えています。いのちへの畏敬、いのちに対しての厳粛さは決して忘れてはいけない。私も牛肉は大好きです。よく食べます。牛のかけがえのない命をいただいているのです。必ず「いただきます」と合掌して食べねばなりません。
 闘牛観戦は、確かに生と死を考える場であることには間違いはなかったです。
合掌
 

2008年8月の言葉と法話

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恥ずかしいと思う心が無くなったことが恥ずかしいのです。
自分の煩悩は照らすものがなかったら見えません。


法話
 人間は歳を重ねると、図太くなっていくのが恥ずかしいと思う心が薄れてきます。ますます 我が強くなり、謙虚さ、素直さを失っているのです。
 ただしこの恥ずかしいという心は、世間に知られて恥ずかしい、人様に知られて恥ずかしいと いう恥ずかしいではありません。
真実に背いて、仏さまに背いて恥ずかしいという心です。この恥ずかしいという心は、真実を生きるバックボー ンに持っていなければ起きてこないでしょう。
 また「人はごまかせても仏さまはごまかせない、人はだませても仏さまはだませない」と言われ るように、ごまかせない、だませない仏さまに遇って いなかったら起こってきません。坂東玉三郎さんはNHKの番組で「いつも天に見られている 気がしています。天はごまかせません。天にごまかさないように 演じていくことが私の目標です。」と話していました。ごまかせないものを持っていなかったら、人 が見ていなかったら、警察に捕まらなかったらかまわないと、 恥ずかしいという心は起ってきません。
  相田みつをさんに「恥ずかしい私」という詩があります。「あじさいの花をみているわたし あ じさいの花にみられているわたし 花にみられてはずかしい  にんげんのわたし」私たちは花に見られて恥ずかしいといえる心を持っているでしょうか?な ぜ恥ずかしいのでしょうか。
  八木重吉さんの詩に「花はなぜ美しいのか ひとすじの気持ちで咲いているからだ」とあり ます。武者小路実篤さんの詩に「人知るもよし 人知らぬもよし  花は咲くなり」とあります。花は人が知ろうが知るまいが、ひとすじの気持ちで咲いています。 ありのままに咲いています。その花に見られたら私たちは本当に 恥ずかしいです。私たちはすぐに人によく見てもらいたいという気持ちが強く、自分を飾り、ご まかし、偽っています。問題は飾り、ごまかし、偽っている自分に 気づかないことです。私たちは仏さまに遇わねば、自分を照らすものがなかったら自分の煩悩が 見えないのです。どんなに頭の良い人でも、人の欠点やいやらしさは みえても自分の欠点やいやらしさは見えないのです。
「自分で自分を本当に知るということ は。自分の眼で自分の眼を見るようなものだ」と言われています。どんなに頑張っても 見ることは出来ません。それ故、自分の煩悩を、恥ずかしさを気づかせてくれる照らしてくれ る仏さまの教えをよく聴聞しなければいけないのです。

 「慚愧なきは名づけて人とせず、名づけて畜生とす」『涅槃教』
 「あさましや あさましや いつまで待っても あさましや 鬼を生み出す 才市の心」(浅原才市)

2008年7月の言葉と法話

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・人は出会いによって育てられ、別れによって深められる
・思いどうりにしようという心が苦しみを生む


法話
 苦とは思いどうりにならないことであり、心身を悩まされて不安な状態をいいます。人は誰しも多かれ少なかれ、縁により思いどうりに したいという心を起こします。それが思いどうりにいかない時、苦しみが生じます。思いどうりにしようという心が苦しみを生んでいるの です。仏教では四苦八苦を教えています。生・老・病・死の四苦と愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦を合わせて四苦八 苦です。愛別離苦とは、愛するものと別れ離れなければならない苦しみです。怨憎会苦とは、怨み憎むものとも会わねばならない苦し みです。求不得苦とは、求めても得ることが出来ない苦しみです。五蘊盛苦とは、人間の心身を形成する五つの要素から生じる苦しみ です。
  苦とは思いどうりにしたいが思いどうりにならないから起こるのですから、個人的に違います。勉強や走ることが苦しみという人もいれ ば、勉強や走ることが好きですという人もいます。老いや病や死を受けとめている人には、あまり苦しみではなくなります。しかし私たち 凡夫は老いたくないし、病にもかかりたくないし、死にたくないです。だから苦しみなのです。
  仏教は私たちの苦の現実を教え、苦からの開放、苦を乗り越えていくことを教えているのです。私たちは嫌いな人や憎む人には会い たくないです。しかしその人たちから教えられ、学び、育てられることもあります。嫌いな人や憎む人から私の我の強さ、煩悩具足の凡 夫であることを教えられ気づかされます。「善い人に会って教えられ、悪い人に会って反省すれば善悪ともにありがたい」という言葉が ありました。また親しい人との別れから、いろいろなことを教えられます。いのちの尊さはかなさ、あたりまえではなくおかげさまの命で であること、いま出会っている生かされている喜びを教えられます。
  人は出会いによっていろいろ教えられ育てられ、別れによって命が深められていくのです。合掌

2008年6月の言葉と法話

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・あたりまえに驚く、ありがたさの発見。
・仏さまは あたりまえと思っていたことが あたりまえでなかったと気づかせてくださいます。


法話
 以前、ある家にお参りに行ったとき、そこのおじいさんが「夜眠るのが怖い、もう永遠に眼が開かないような気がする。なかなか眠れ ないがいつの間にか寝ている。でも朝眼が開いたとき感動する」と話されていました。わたしたちは、朝、眼が開くことはあたりまえと 思っていますから少しの感動もありません。しかし数ヶ月前私が風邪を引いて声が出にくくなった時、薬を飲んで早く寝て朝眼が覚め たとき、「声が出る」と感動しました。私たちはいま、眼が見え、耳が聞こえ、手足が動きますが、あたりまえではないのです。おかげ さまなのです。わたしたちはすぐに、なれてくるとあたりまえになるのです。いのちの事実を見失っているのです。 声が出て感動したのもその時だけでした。声が出るようになったら、それがあたりまえと思っています。「ありがたい」の反対語は、 「あたりまえ」です。あたりまえと思う生活には、喜び、感謝、感動はありません。問題は私たちのものの見方が、自分中心の色眼鏡 をかけた見かたしか出来ないから、すぐにあたりまえになるのです。仏さまは、あたりまえと思っていたことが、あたりまえでなかった と気づかせてくださいます。私たちは、その時は気づいても、すぐに忘れるから繰り返し聞かねばならないのです。聴聞とは、あり がたい話しを聞くのではありません。ありがたい事実に目覚めさせていただくのです。
星野富弘さんに「あたりまえ」という詩があります。 こんなすばらしいことを みんなはなぜよろこばないのでしょう あたりまえであることを お父さんがいるお母さんがいる 手が二本あって足が二本ある 行きたいところへ自分で歩いていける 手をのばせば何でもとれる 音が聞こえて声が出る こんなしあわせはあるでしょうか しかし誰もこれをよろこばない そのありがたさを知っているのは それをなくした人たちだけ

2008年5月の言葉と法話

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・流れる水はくさらないが、たまり水はくさってゆく。いつも新しい流れを、いのちの中に引きこもう。
・毎日が自分探しの旅(自己発見の旅)であれば、きっと充実した旅になるでしょう。

法話
 この世は無常です。方丈記に「行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらず」とあるように、毎日移り変わっています。眼には見えませんが、川の水の流れの ように一瞬一瞬変化しています。流れる水は活き活きして決して腐りませんが、たまった水は、時間がたつと腐ってゆきます。私たちの人生も同じです。毎日の 生活の中で新しい発見をいのちの中に引きこまなければ虚しい日々を送ることになるのです。日々の暮らしが単調で、味気ない退屈な日々を送ることになるので す。  毎日の生活は同じことの繰り返しですが、その中で気づきや新しい発見があれば、いのちが充実します。いのちが輝きます。  あるおばあさんは毎朝おつとめする「正信偈」を、「毎日同じおつとめをしても味が違う、毎日新しい発見、気づきがある」と話していました。私たちも日々 の暮らしが、自分探しの旅、自己発見の旅であれば、どんなにか素晴らしい人生の旅になることでしょう。
 そのためには、常に謙虚になり頭を柔らかくしていなければなりません。読書・景色・映画・テレビ・仕事・会話の中で気づかされることは多いいです。毎日 日記をつけ、今日の一日を振り返ることもいいでしょう。また聴聞をお勧めします。謙虚に仏さまの話を聞くことは、今まで見えなかったこと、気づかなかった ことを気づき、見さしてくださいます。「仏道を習うとは、自己を習うなり」といわれるように、仏さまが、私の錆びついた感性や知性を磨き、凝り固まった頭 や感情を破ってくださいます。流れる水はくさりません、活き活きと流れています。しかしたまってくると、いつの間にか汚れくさってきます。私たちはいつも いのちの水が、いきいきと流れるようにつとめなければならないのです。

2008年4月の言葉と法話

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・布教とは、浄土真宗の教えを説くのではない 苦悩の有情を救う教えを説くのです


法話
 布教とは、浄土真宗の教えや仏教の教えを説くのではない。 苦しんでいる悩んでいる人々を救う法(教え)を説くのです。この方向を間違えてはいけない。 しかしどの仏教教団もこの方向を間違えていたように思います。わが教団、わが宗旨の教えを説くことに中心になり、苦悩の人々を救うという最も大切なこと、 布教の原点を忘れていたように思います。その結果、教えと人々の心がかけ離れ、「現場なき教学、教学なき現場」と言われるようになってきて、現代社会の苦 悩する問題に発言できなくなり、仏教が現代人の生きる支え、よりどころにならなくなってきたのです。
 釈尊の伝道も、人々の苦悩を除くために法が説かれたのです。決して難しい数学を説くためではありません。親鸞聖人のご和讃に「如来の作願をたづぬれば  苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」ありますように、阿弥陀如来が本願を起こされた理由は、どこまでも苦悩の有情を救う ためなのです。その苦悩の有情である凡夫の私たちを救うためにお念仏が届けられているのです。お念仏を説くためではなく、苦悩の有情を救うためにお念仏が 説かれているのです。その原点を忘れて、自らの宗旨の教えを我田引水的に説こうとしているところに今日の大きな問題点があります。焦点、目的がズレている のです。
 今私たち僧侶は、現在様々な問題で苦しんでいる人々を救う、生きる力となる教えを伝えていかなければなりません。現代人も様々な問題で苦しんでいられま す。病気、老い、死、人間関係、いじめ、差別・・・・いろいろな問題があります。これらの問題に積極的に応えていかなければなりません。今回、この誌面で は死について少し考えてみたいと思います。
 死は、人間にとって根源的な苦悩です。誰一人として避けられない問題です。生まれたときから約束された事実です。いつ来るかはわかりませんが必ずやって きます。しかも老少不定で順番がありません。この死の問題をどう解決するか。どう乗り越えるか。この問題解決のために仏教・浄土真宗の教えが説かれている のです。若い時はあまり問題にはならないが、歳を重ねてくると老いや死が切実な問題になってきます。
 少し前もお参りに行った時、お年寄りの方が「夜なかなか眠れない、寝たらもう永遠に眼があかないような気持ちになる。死が不安です。」と話されていまし た。私たちは死にたくない、まだまだ生きたいという我執を持っています。この我の思い通りにいかないところに苦しみがあります。この我が破れなければ不安 は解決しません。仏さまは、お念仏はこの我を破ってくださるのです。我が破れたら、生と死を超えた広い世界に出て行くことが出来るのです。我が破れたら仏 になる約束が出来るのです。それは死ぬことではなく、仏の世界に生まれるのです。往生とは死ぬことではありません。往き生まれることです。死ぬことは悲し いが、生まれることはめでたいことです。阿弥陀如来は、死の問題に苦悩している私たちに、お願いだからお念仏を申して私の国である浄土に生まれて欲しいと よびつづけていられます。我のはからいを捨て、この阿弥陀如来の言葉にまかすのです。まかすことが出来たら安心です。この娑婆に縁が尽きて、力尽きて終わ る時に、「安心して帰っておいで」という世界が与えられていることに気づいたら、不思議なことに命終えるその日まで、精一杯生き抜こうという力が湧いてく るのです。
 「生きてよし、死してよし、どことてもみ手(阿弥陀如来のお慈悲)のまんなか」です。
                                                                                  称名

2008年3月の言葉と法話

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・生きるということは自分で自分をつくっていくこと。今の私は、いままでに私が私をつくってきた作品です。
・大地が私をそのまま支えているように、仏さまはいつも私をそのまま認めています。


法話
 東井義雄先生の詩に「自分は自分の主人公世界でただ一人の自分をつくっていく責任者」とあります。私たちが生きるということは、多くのいのちに支えられ 生かされているのです。自分では気づかないが、いろいろな人に迷惑をかけ、傷つけながら生きているのです。またこれまでに多くの人に教えられ導かれて生か されてきたのです。私たちはこのいのちの事実に気づいているでしょうか。感謝することを忘れ、周囲に流され、煩悩のままに自我中心に生きてないでしょう か。私たちは他のものを依りどころにしてはいけないのです。どこまでも自分を依りどころにしなければいけません。お釈迦さまの最後の説法にあるように「自 帰依、自灯明」すなわち自らを依りどころにし、自らを灯として、他のものを依りどころ、灯としてはいけないのです。この教えは人間の自立を教えています。 いくら小さい、弱い足であっても、しっかりと自分の足で立ち力強く生きることを教えています。自分以外に自分をつくっていく人はいないのです。自分は自分 の主人公であり世界でただ一人の自分をつくっていく責任者です。
 私は真に自立できる人になりたいです。また、いのちの事実に気づき感謝できる人、優しい人になりたいです。世間の眼を気にしたり、他のものを依りどころ にして生きると、知らず知らずに自分を飾り、偽り、ごまかし、自立ではなく何かをしてもらうという依存心が強くなり、思い通りにいかないと、愚痴や腹だち の生活となっています。今まで私たちはどんな人生の歩みをしてきたのでしょうか。今の私は、いままでに私が私をつくってきた作品です。これからどんな作品 をつくっていきますか。私の老いていく姿は私がそれまでに歩んできた作品なのです。お釈迦さまの最後の説法の「自帰依、自灯明」の次に「法帰依、法灯明」 とあります。すなわち法を依りどころとし、法を灯とし、他のものを依りどころ、灯としてはいけない。法を生きる土台として自分の足で自立して生きることを 教えているのです。
 私たちは何をいのちの根源としていますか、また何を生きる立脚地としていますか。人間は本来いのちの根源をもっていないのです。それ故、縁ひとつによっ て振り回されているのです。状況次第でどうなるかわかりません。一寸先が闇の世の中ですから、確かなものを生きる立脚地としなければいけないのです。念仏 とは、阿弥陀如来が、「私があなたたちのいのちの根源となります」というよび声です。
 大地はどんな時でも、うれしい時、悲しい時、悔しい時、いつでもそのまま私を支えているように、阿弥陀如来は、分けへだてせず、選ぶことをせず、この私 をそのまま認め、私の生きる居場所、立脚地、いのちの根源となってくださっているのです。仏地に樹つ人生を力強く歩んでまいりましょう。             合掌

2008年2月の言葉と法話

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・まんまんちゃん いつも見ているよ
・仏さまから私を見る眼を育てよう、仏さまの眼はごまかせません
・いつも私を見ている人がおり、いつも私を照らしている人がいるので私はくじけずに今日をあるく


法話
 現代人は「仏さまに見られている」という感性をまったく失ってきました。以前はよく「まんまんちゃん見ているよ」とか「お天道さまが見ているよ」という 言葉を耳にしました。最近はほとんど聞かなくなりました。現代人は大いなるいのちの働きに支えられている、仏さまに見られているということを忘れてきまし たから、「人が見てなかったら、何をしてもいい」という風潮が生まれてきました。
 私はお参りに行ったとき、「人はごまかせても、仏さまはごまかせない。人はだませても仏さまはだませない」ということを子供さんに是非に伝えて下さいと お願いしています。仏さまの眼は決してごまかせません。現代人は「ごまかせない」ものをもっていないのです。子供だけではなく大人も地位の高い人でも同じ です。人が見ていなかったら、警察に捕まらなかったらという意識が蔓延しています。戦後、日本の復興のため経済至上主義で進んできました。その結果日本人 は損得中心の打算的になり、自分さえ良かったらという自己中心になってきました。昨年は偽装事件がよく報道されましたが、これもまだ氷山の一角でしょう。
 先日NHKの「プロフェッショナル」という番組に、歌舞伎の坂東玉三郎が出演していました。司会者が「歌舞伎の目標はありますか。」という質問に、「目 標はありませんが、いつも天から見られているという感じがします。天はごまかせません。天にごまかさないように演じることです。」ということを話していま した。花の如く、そのままで嘘、いつわりのない演技を目指しているのです。
 相田みつをさんに「恥ずかしい私」という詩があります。「あじさいを見ている私、あじさいに見られている私、花に見られて恥ずかしい人間の私。」何故花 に見られて恥ずかしいのでしょうか?花は人が知ろうが知るまいが、ありのままで、ひとすじの気持ちで咲いています。その花に見られたら私たちは恥ずかしい です。私たちはすぐに人に良いように見られたい認めてもらいたい、ほめられたいという気持ちが働き、自分を飾ったり、ごまかしたり偽っています。やっかい なことに飾っている、ごまかしている自分になかなか気づかないのです。気づかせてくれる働きに会うことによって気づかされるのです。花に見られて恥ずかし いように、仏さまに見られたらごまかせません。恥ずかしいです。ありのままの私の姿が明らかになるのです。それ故「仏さまから私を見る眼」を育てていかな ければいけないのです。
 仏さまの智慧の眼は厳しいですが、同時に、いつも優しい慈悲の眼で見ていてくださっています。決して見捨てることせず、分けへだてすることをせずあたた かく照らしつづけてくださっています。大地のようにどんな時でも私を支えてくださっています。いつも私を見ている人がおり、いつも私を照らしている人がい るので、くじけずに歩いていくことができるのです。 合掌

2008年1月の言葉と法話

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・あけまして南無阿弥陀仏
・また一つ歳をいただき、み仏のみ名を聞けよのいのちなりけり
・私から仏さまを見るのではなく、仏さまから私を見る眼を育てよう


法話
 あけまして南無阿弥陀仏。
 永遠の生命、無限の智慧、これ以上にめでたき言葉なし。すなわち南無阿弥陀仏です。お念仏を生きる支えとして今年もいのちを輝かして生きたいと思っています。
 お念仏は"真実にめざめよ"といういのちのメッセージです。真実(如来)はいつも不実(凡夫)に向かって真実にめざめよとよびかけています。本物に遇う ことによって偽物が明かになるように、真実に遇えば私の愚かさ、恥ずかしさ、罪深さが明かになってきます。それは真実(如来)が働いているからです。真実 は不実を不実と気づかせ、真実へと導いてくれます。真実なるものが見つかりましたという喜びの叫びがお念仏です。その真実なるものを生きる力、生きる支え として生きていくのが浄土真宗です。
 私たちはいつも私を主体として、あらゆるものを見ています。私たちは仏さまも客体として見ています。そうではなく、仏さまを主体として、私を客体として 見る眼をもつことが大切なのです。仏さまの眼から見ると私の不実さが明かになると同時に、仏さまの分けへだてしない、選ぶことをされない、比べることをさ れない心が伝わってきます。仏さまはいつも「私があなたの生きる力となるよ」とよび続け、私たちに生きる力を与えると同時に、迷わずに生きる方向(真実へ の道・浄土への道)を教えて下さっています。それ故、私から仏さまを見るのではなく、仏さまから私を見る眼を育てていかねばならないのです。 )

2007年12月の言葉と法話

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・念仏を申すとは"ありがとうございます"ということです
・真実なるものが見つかりましたという喜びの叫びこそ念仏です
・生きんかな 本当に生きんかな ただ念仏して


法話
 私たちがお念仏を申すとは、阿弥陀さまありがとうございますという感謝の言葉です。
 念仏とは仏の手のもとにあってはよび声、名号となり衆生の心に顕れて称名となります。
 阿弥陀如来は南無阿弥陀仏のよび声、名号となり、いつも私たちに「必ず救う、我にまかせよ」「いつもあなたと一緒だよ」「どんな時も私があなたの生きる 力、生きる支えになる」「あなたはあなたのままでいい」「真実にめざめよ」「いのちの事実に気づきなさい」という願いをこめて「阿弥陀仏に南無せよ」とよ びつづけてくださっています。
 その阿弥陀如来の願いが私の心に届いたら、私の口から出る念仏は、称名は、「ありがとうございます」ということであり、真実なるものが見つかりましたいう喜びの告白です。その念仏を生きる支え、依りどころとして生きるのです。
 私たちはいくらお念仏に出遇っても、煩悩具足の凡夫には変わりありません。縁次第で、愛欲名利の心をおこしたり、腹をたて、愚痴をこぼし、相手を責めて います。だからこそ真実なるもの確かなものを依りどころとしなければいけないのです。うれしい時も悲しい時も淋しい時も腹がたった時もお念仏を申して生き ていきましょう。
 「生きんかな 本当に生きんかな ただ念仏して」(武部勝之進)

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