MYOKYOJI

今月の言葉と法話: 2006年10月アーカイブ

「ただ念仏」

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 鈴木章子さんが、モルモン教の宣教師さんと、仏の慈悲と神の愛の違いについて話し合われた 時、 「わたしとっても悪い子。仏さんのいうこときかない悪い子。仏さん南無阿弥陀仏の涙ポロポロ こぼして、わたしを追いかけてくる。わたし悪いことすればするほど、如来さん泣いて追いかけ てくる。それ大慈悲ネ。神さまの愛ちがう。神さまのいうこときく子いい子、背く子悪い子。そこ、 神さまの愛と慈悲はちがう」と、片言の英語で話されたそうです。  私自身、僧侶として袈裟をかけ法務に励んでいますが、日々の生活は煩悩に振り回され、仏さ まに背いた悪い子です。仏さまに願われていても、仏さまのことはほとんど忘れています。「逃ぐ るもの」とは、まさに私自身のことです。この私をめあてに、阿弥陀さまはいつでも南無阿弥陀 仏の涙をポロポロ流しながら、私を追いかけてくださっているのです。 また私たちはお念仏に遇い、お慈悲が喜べたと思っていても、その喜びはすぐに消えて逃げて いきます。いつまでも喜びが持続するということはありません。信心をいただければいつでも喜 べるという公式はないのです。「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは煩悩の所為な り」といわれるように、私たち煩悩具足の凡夫は、喜んだと思っていても思い通りにいかないこ とに出会うと、すぐに腹をたて愚痴をこぼしています。浅原才市さんは、「よろこびはかぜのよう なもので あてにならぬ ふいてにげるよ あとかたもなし」と歌われています。  そうですから私たちがお慈悲が喜べたことがありがたいというよりも、すぐに喜びが消えて逃 げる私をどこまでも摂取して捨てないと働き、喚び続けてくださっている阿弥陀さまのお慈悲が ありがたいのです。たのもしいのです。そこに私たち凡夫が救われていく唯一の道があるのです。 ただ念仏しかないのです。

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