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今月の言葉と法話: 2007年5月アーカイブ

2007年5月の言葉と法話

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・「仏教を学ぶとは、何が真実で、何が偽物かを明らかにすることです」
・「救いとは、真実の世界に目覚めることです」


法話
 私は、人間とは何が本当か、何が真実かを求めて生きている生き物だと思っています。 どんな人でも本当だと気づけば、素直になれます。頭が下がります。しぶとく自我に固執している私たちですが、自我の底では真実を求めて生きているのです。その証拠に、素晴らしい言葉や作品に出遇うと感動します。頭が素直に下がります。
 私たちは何故、話し合ったり議論したりするのでしょうか。
それはどちらが本当か、真実かを知るためです。本当だと思えたら握手が出来ますが、自分の意見に固執したり納得いかなかったらすぐ反発し合っています。
 「この自我・我執オレと一生つき合う相手」  「またしても 私わたしと いう私 八十路を越ゆる 齢となりても」という言葉があるように、私たちは一生自我・我執を無くすことはできません。齢をと ればますます我が強くなっているように思います。どこまでも自我中心に生きて真実を見失った生き方をしています。
 そんな私たちに、仏さまは真実を教えるために働いてくださっているのです。仏教を学ぶとは、何が真実か、何が偽物かを明らかにすることです。  以前、ある先生が大学で仏教を学ぼうとしている学生に、「君たちは何のために仏教を学ぼうとしているのだ。もし仏教が何かの役に立つと思って学ぶのだったら、止めてしまいなさい。仏教は真実だから学ぶのです」と話されていました。
 真実とは、永遠に変わらない普遍の真理であり、裏切られることも、あざむかれることもなく、決してこの世から失くなることがないこの世の唯一の宝物で す。また真実とは、不実を明らかにして不実を不実と気づかせ、不実を真実へと帰らしめていく働きをもっています。
 仏の真実に遇えば遇うほど、私がどこまでも煩悩具足の凡夫であることが気づかされます。しかしこの煩悩は自分では気づけないのです。仏の真実に照らされ なかったら気づけないのです。私たちは自力では真実に気づけないので、阿弥陀如来という仏さまは、如来みずから私たち凡夫のところにまで来てくださって私 たちに本当のことを教えてくださっているのです。「真実とは如来なり」と言われているように、真実がみずからあらわれて来て下さっているのです。
 私たちの日常生活は自我中心に、煩悩にふり回されている日暮らしをしているので、如来の真実を依りどころに真実の世界である浄土に向かう、「浄土への道」を歩まさせていただくのです。

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