・布教とは、浄土真宗の教えを説くのではない 苦悩の有情を救う教えを説くのです
法話
布教とは、浄土真宗の教えや仏教の教えを説くのではない。 苦しんでいる悩んでいる人々を救う法(教え)を説くのです。この方向を間違えてはいけない。 しかしどの仏教教団もこの方向を間違えていたように思います。わが教団、わが宗旨の教えを説くことに中心になり、苦悩の人々を救うという最も大切なこと、 布教の原点を忘れていたように思います。その結果、教えと人々の心がかけ離れ、「現場なき教学、教学なき現場」と言われるようになってきて、現代社会の苦 悩する問題に発言できなくなり、仏教が現代人の生きる支え、よりどころにならなくなってきたのです。
釈尊の伝道も、人々の苦悩を除くために法が説かれたのです。決して難しい数学を説くためではありません。親鸞聖人のご和讃に「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」ありますように、阿弥陀如来が本願を起こされた理由は、どこまでも苦悩の有情を救う ためなのです。その苦悩の有情である凡夫の私たちを救うためにお念仏が届けられているのです。お念仏を説くためではなく、苦悩の有情を救うためにお念仏が 説かれているのです。その原点を忘れて、自らの宗旨の教えを我田引水的に説こうとしているところに今日の大きな問題点があります。焦点、目的がズレている のです。
今私たち僧侶は、現在様々な問題で苦しんでいる人々を救う、生きる力となる教えを伝えていかなければなりません。現代人も様々な問題で苦しんでいられま す。病気、老い、死、人間関係、いじめ、差別・・・・いろいろな問題があります。これらの問題に積極的に応えていかなければなりません。今回、この誌面で は死について少し考えてみたいと思います。
死は、人間にとって根源的な苦悩です。誰一人として避けられない問題です。生まれたときから約束された事実です。いつ来るかはわかりませんが必ずやって きます。しかも老少不定で順番がありません。この死の問題をどう解決するか。どう乗り越えるか。この問題解決のために仏教・浄土真宗の教えが説かれている のです。若い時はあまり問題にはならないが、歳を重ねてくると老いや死が切実な問題になってきます。
少し前もお参りに行った時、お年寄りの方が「夜なかなか眠れない、寝たらもう永遠に眼があかないような気持ちになる。死が不安です。」と話されていまし た。私たちは死にたくない、まだまだ生きたいという我執を持っています。この我の思い通りにいかないところに苦しみがあります。この我が破れなければ不安 は解決しません。仏さまは、お念仏はこの我を破ってくださるのです。我が破れたら、生と死を超えた広い世界に出て行くことが出来るのです。我が破れたら仏 になる約束が出来るのです。それは死ぬことではなく、仏の世界に生まれるのです。往生とは死ぬことではありません。往き生まれることです。死ぬことは悲し いが、生まれることはめでたいことです。阿弥陀如来は、死の問題に苦悩している私たちに、お願いだからお念仏を申して私の国である浄土に生まれて欲しいと よびつづけていられます。我のはからいを捨て、この阿弥陀如来の言葉にまかすのです。まかすことが出来たら安心です。この娑婆に縁が尽きて、力尽きて終わ る時に、「安心して帰っておいで」という世界が与えられていることに気づいたら、不思議なことに命終えるその日まで、精一杯生き抜こうという力が湧いてく るのです。
「生きてよし、死してよし、どことてもみ手(阿弥陀如来のお慈悲)のまんなか」です。
称名
法話
布教とは、浄土真宗の教えや仏教の教えを説くのではない。 苦しんでいる悩んでいる人々を救う法(教え)を説くのです。この方向を間違えてはいけない。 しかしどの仏教教団もこの方向を間違えていたように思います。わが教団、わが宗旨の教えを説くことに中心になり、苦悩の人々を救うという最も大切なこと、 布教の原点を忘れていたように思います。その結果、教えと人々の心がかけ離れ、「現場なき教学、教学なき現場」と言われるようになってきて、現代社会の苦 悩する問題に発言できなくなり、仏教が現代人の生きる支え、よりどころにならなくなってきたのです。
釈尊の伝道も、人々の苦悩を除くために法が説かれたのです。決して難しい数学を説くためではありません。親鸞聖人のご和讃に「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり」ありますように、阿弥陀如来が本願を起こされた理由は、どこまでも苦悩の有情を救う ためなのです。その苦悩の有情である凡夫の私たちを救うためにお念仏が届けられているのです。お念仏を説くためではなく、苦悩の有情を救うためにお念仏が 説かれているのです。その原点を忘れて、自らの宗旨の教えを我田引水的に説こうとしているところに今日の大きな問題点があります。焦点、目的がズレている のです。
今私たち僧侶は、現在様々な問題で苦しんでいる人々を救う、生きる力となる教えを伝えていかなければなりません。現代人も様々な問題で苦しんでいられま す。病気、老い、死、人間関係、いじめ、差別・・・・いろいろな問題があります。これらの問題に積極的に応えていかなければなりません。今回、この誌面で は死について少し考えてみたいと思います。
死は、人間にとって根源的な苦悩です。誰一人として避けられない問題です。生まれたときから約束された事実です。いつ来るかはわかりませんが必ずやって きます。しかも老少不定で順番がありません。この死の問題をどう解決するか。どう乗り越えるか。この問題解決のために仏教・浄土真宗の教えが説かれている のです。若い時はあまり問題にはならないが、歳を重ねてくると老いや死が切実な問題になってきます。
少し前もお参りに行った時、お年寄りの方が「夜なかなか眠れない、寝たらもう永遠に眼があかないような気持ちになる。死が不安です。」と話されていまし た。私たちは死にたくない、まだまだ生きたいという我執を持っています。この我の思い通りにいかないところに苦しみがあります。この我が破れなければ不安 は解決しません。仏さまは、お念仏はこの我を破ってくださるのです。我が破れたら、生と死を超えた広い世界に出て行くことが出来るのです。我が破れたら仏 になる約束が出来るのです。それは死ぬことではなく、仏の世界に生まれるのです。往生とは死ぬことではありません。往き生まれることです。死ぬことは悲し いが、生まれることはめでたいことです。阿弥陀如来は、死の問題に苦悩している私たちに、お願いだからお念仏を申して私の国である浄土に生まれて欲しいと よびつづけていられます。我のはからいを捨て、この阿弥陀如来の言葉にまかすのです。まかすことが出来たら安心です。この娑婆に縁が尽きて、力尽きて終わ る時に、「安心して帰っておいで」という世界が与えられていることに気づいたら、不思議なことに命終えるその日まで、精一杯生き抜こうという力が湧いてく るのです。
「生きてよし、死してよし、どことてもみ手(阿弥陀如来のお慈悲)のまんなか」です。
称名