MYOKYOJI

今月の言葉と法話: 2008年6月アーカイブ

2008年6月の言葉と法話

|
・あたりまえに驚く、ありがたさの発見。
・仏さまは あたりまえと思っていたことが あたりまえでなかったと気づかせてくださいます。


法話
 以前、ある家にお参りに行ったとき、そこのおじいさんが「夜眠るのが怖い、もう永遠に眼が開かないような気がする。なかなか眠れ ないがいつの間にか寝ている。でも朝眼が開いたとき感動する」と話されていました。わたしたちは、朝、眼が開くことはあたりまえと 思っていますから少しの感動もありません。しかし数ヶ月前私が風邪を引いて声が出にくくなった時、薬を飲んで早く寝て朝眼が覚め たとき、「声が出る」と感動しました。私たちはいま、眼が見え、耳が聞こえ、手足が動きますが、あたりまえではないのです。おかげ さまなのです。わたしたちはすぐに、なれてくるとあたりまえになるのです。いのちの事実を見失っているのです。 声が出て感動したのもその時だけでした。声が出るようになったら、それがあたりまえと思っています。「ありがたい」の反対語は、 「あたりまえ」です。あたりまえと思う生活には、喜び、感謝、感動はありません。問題は私たちのものの見方が、自分中心の色眼鏡 をかけた見かたしか出来ないから、すぐにあたりまえになるのです。仏さまは、あたりまえと思っていたことが、あたりまえでなかった と気づかせてくださいます。私たちは、その時は気づいても、すぐに忘れるから繰り返し聞かねばならないのです。聴聞とは、あり がたい話しを聞くのではありません。ありがたい事実に目覚めさせていただくのです。
星野富弘さんに「あたりまえ」という詩があります。 こんなすばらしいことを みんなはなぜよろこばないのでしょう あたりまえであることを お父さんがいるお母さんがいる 手が二本あって足が二本ある 行きたいところへ自分で歩いていける 手をのばせば何でもとれる 音が聞こえて声が出る こんなしあわせはあるでしょうか しかし誰もこれをよろこばない そのありがたさを知っているのは それをなくした人たちだけ

月別 アーカイブ