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今月の言葉と法話: 2008年8月アーカイブ

2008年8月の言葉と法話

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恥ずかしいと思う心が無くなったことが恥ずかしいのです。
自分の煩悩は照らすものがなかったら見えません。


法話
 人間は歳を重ねると、図太くなっていくのが恥ずかしいと思う心が薄れてきます。ますます 我が強くなり、謙虚さ、素直さを失っているのです。
 ただしこの恥ずかしいという心は、世間に知られて恥ずかしい、人様に知られて恥ずかしいと いう恥ずかしいではありません。
真実に背いて、仏さまに背いて恥ずかしいという心です。この恥ずかしいという心は、真実を生きるバックボー ンに持っていなければ起きてこないでしょう。
 また「人はごまかせても仏さまはごまかせない、人はだませても仏さまはだませない」と言われ るように、ごまかせない、だませない仏さまに遇って いなかったら起こってきません。坂東玉三郎さんはNHKの番組で「いつも天に見られている 気がしています。天はごまかせません。天にごまかさないように 演じていくことが私の目標です。」と話していました。ごまかせないものを持っていなかったら、人 が見ていなかったら、警察に捕まらなかったらかまわないと、 恥ずかしいという心は起ってきません。
  相田みつをさんに「恥ずかしい私」という詩があります。「あじさいの花をみているわたし あ じさいの花にみられているわたし 花にみられてはずかしい  にんげんのわたし」私たちは花に見られて恥ずかしいといえる心を持っているでしょうか?な ぜ恥ずかしいのでしょうか。
  八木重吉さんの詩に「花はなぜ美しいのか ひとすじの気持ちで咲いているからだ」とあり ます。武者小路実篤さんの詩に「人知るもよし 人知らぬもよし  花は咲くなり」とあります。花は人が知ろうが知るまいが、ひとすじの気持ちで咲いています。 ありのままに咲いています。その花に見られたら私たちは本当に 恥ずかしいです。私たちはすぐに人によく見てもらいたいという気持ちが強く、自分を飾り、ご まかし、偽っています。問題は飾り、ごまかし、偽っている自分に 気づかないことです。私たちは仏さまに遇わねば、自分を照らすものがなかったら自分の煩悩が 見えないのです。どんなに頭の良い人でも、人の欠点やいやらしさは みえても自分の欠点やいやらしさは見えないのです。
「自分で自分を本当に知るということ は。自分の眼で自分の眼を見るようなものだ」と言われています。どんなに頑張っても 見ることは出来ません。それ故、自分の煩悩を、恥ずかしさを気づかせてくれる照らしてくれ る仏さまの教えをよく聴聞しなければいけないのです。

 「慚愧なきは名づけて人とせず、名づけて畜生とす」『涅槃教』
 「あさましや あさましや いつまで待っても あさましや 鬼を生み出す 才市の心」(浅原才市)

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