MYOKYOJI

10月の言葉と法話

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念仏を称えることは、人間の仕事ではなく、仏さまの仕事です。

 法話

念仏は、私が仏をよぶ声ではなく、仏さまが私をよぶ声です。阿弥陀さまが私たちを救うには念仏になるしかないと気づかれ、私たちをよび続けていられるのです。念仏を称えるとは、私の口から称えているのですが、実際は仏さまのはたらきが称えさせているのです。「私が申す念仏やけど私でないがや、阿弥陀さまのおよび声や」です。たとえばいい湯加減の風呂に入った時、「あー気持ちいい」というでしょう。私の口から言っているのですが、お湯の働きがいわせているのです。念仏を称えることは仏さまの仕事です。それを人間の仕事と思っているから救われないのです。仏さまに遇えないのです。私が称えるのではなく、仏さまが称えさせているのです。私が入れば念仏ではないのです。念仏も無我です。私が入れば自分の都合で称えます。救いの手段になります。自分がこれだけ称えたから救いや功徳があると思っているのです。仏さまを見ず、自分しか見てないのです。いくら一生懸命、集中して称えても救われません。念仏は仏さまの仕事だから、どんな思いで、どんな心で称えるということは、まったく用事なしです。数多く称えるとか心を集中して称えるとかは全く思わなくていいのです。私が称える仏さまの声を聞いていきましょう。念仏とは聞くものです。

9月の言葉と法話

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念仏を称えることが目的ではありません。念仏を称え仏さまの声を聞くことが目的です。

法話

念仏は人間の言葉ではありません。仏さまの言葉です。仏さまの目に見えないお慈悲が言葉にあらわれてナモアミダブツと声で知らせてくださっているのです。念仏とは聞くものです。「必ず救う、我にまかせよ」という仏さまの声を聞くのです。念仏は私のハカライで称えるものではありません。阿弥陀さまが私の口から出てくださっているのです。「わが声ながら尊かりけり)です。阿弥陀さまの声を聞き、阿弥陀さまの声に支えられて生きていくのです。

1月の言葉と法話

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耳に聞こえた念佛は仏さまの声です。私が称える念仏は仏さまのよび声に応えることです。

法話

お念仏が、いま自分の耳に聞こえたのは、阿弥陀さまのよび声です。お念仏は、阿弥陀さまが人間の器量を見抜き、これでしか凡夫を救うことが出来ないと気づかれ、阿弥陀さま自身が念仏となり、私の口から出てくださっているのです。「わが声ながら尊とかりけり」です。念仏とは聞くものです。つねに私をよび続けたおられる阿弥陀さまの声を聞くのです。「称名とは阿弥陀さまの声を聞くことであります」といわれるように阿弥陀さまの声を聞きお念仏を称えていきましょう。

12月の言葉と法話

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目に見えぬお慈悲が南無阿弥陀仏と口に出る

法話

 仏さまのお慈悲は目に見えません。しかし間違いなく働いています。たとえば気づくということは、必ず気づかせる働きがあるから気づくのです。自分で気づいたのではありません。お慈悲に気づかれた方は「お慈悲は温いです」と喜ばれています。お慈悲がもっとも具体的に働いているのは、阿弥陀如来自身が南無阿弥陀仏となり、私たちの口から出てくださっていることです。念仏とは私が申す念仏だけど、実際は阿弥陀如来のよび声です。「必ずお前を救う、まかせよ」と私たちの口から出てくださっているのです。念仏を称えるとは、阿弥陀さまの声を、み名を聞くのです。念仏を称えるということは、阿弥陀さまの声を聞くことです。聞くことが要です。「我称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 連れて往くぞの 親のよび声」(原口針水)

11月の言葉と法話

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人間の眼は光が無ければ何も見えません。心の眼も照らす光が無ければ開かないのです。

法話

人間の眼は借光眼で、太陽や電気の光があるから見えるのです。もし光が無ければ何も見えないのです。「深海魚、光に遠くすむものは、ついに目を失うとあり」と言われるように、太陽の光が届かない深海魚は目が機能しないのです。何も見えないのです。同じように心の眼も照らす光により開くのです。仏さまは光となり、いつも私たちの心のを開かそうと働いてくださっています。「大事なものは目ではは見えない心で見なければいけない」と言われるように、心の眼が開かねば大事なものを見失うのです。気付かないのです。心の眼を開いていきましょう。

10月の言葉と法話

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念仏とは称えるものではなく、聞くものです。仏の声を聞くのです。

 法話

念仏は称えることが目的ではありません。称えることにより仏さまの声を聞くのです.「必ず救う、マカセヨ」「決して見捨てない」「そのままでいい」「必ずお浄土へ連れて帰る」といつもよび続けている仏さまの声を聞くのです。聞こえない人は自分で称えてください。どんな耳の遠い人でも聞こえます。苦悩の有情を必ず救うという仏の願いが、み名となり、声となり、私たちの口から出るように仕上げてくださっているのです。自分が称えているつもりが、実際は仏さまが私の口から出てくださっているのです。「み仏のみ名をよぶわが声は、わが声ながら尊とかりけり」です。阿弥陀如来が南無阿弥陀仏になられているのです。そうでなければ煩悩いっぱいの私たちは救われないのです。念仏とは称えるのではなく、仏のみ名を、仏の声を聞くのです。称えることが目的なれば必ず「我」が入り、仏の声が、仏のみ名が聞こえなくなるのです。私が称えるのではありません。仏さまが私の口から出てくださっているのです。その声を聞いていきましょう。

9月の言葉と法話

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念仏とは、「いつも一緒だよ」という仏のよび声です。よんでるつもりが喚ばれているのです

法話

念仏とは仏をよぶ声ではなく、仏さまによばれているのです。「いつも一緒だよ」「必ず救う、まかせよ」「そのままでいいんだよ」「決して見捨てない」「必ず浄土に連れて帰る」という仏のよび声です。阿弥陀さまは私たち凡夫を救うには、念仏しかないと見抜かれ、阿弥陀さま自身が、名前の仏、声の仏となりよびつづけてくださっているのです。私が仏をよぶ声ではなく仏が私をよぶ声です。私が呼んでるつもりが反対に仏さまによばれていることに気づいてほしいです。仏のよび声を聞いていきましょう。

8月の言葉と法話

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怨みに報いるに怨みをもってすれば、永遠に怨みの尽きることなし

法話

「火で火を消すことができないように、怒りで怒りを消すことはできない」  1951年「サンフランシスコ講和会議」でセイロン代表が「憎悪は憎悪によって止むことはない、慈愛によって止む」というお釈迦様の言葉を述べ、日本に対する賠償請求を放棄する演説を行い、各国の賛同を得て、日本が国際社会に復帰する道筋を作りました。法然上人も、お父さんが土地争いで夜討ちうけ殺害されたのですが、亡くなる前お父さんの遺言で同じような話をされ、お坊さんになられました。 真理の言葉ですが、実際に行うことはとても難しいです。私たちはすぐに「売り言葉に買い言葉」になり争っています。しかしその態度では決して怒りを消すことはできません。なかなかできませんが、このお釈迦様の言葉をしっかりと心に留めでおかねばなりません。

7月の言葉と法話

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信じていないから甘えられないのです。信じているから甘えられるのです。

部分を全体にしたら悲しみを生む。部分は部分でしかない。その人の全体ではない。(富田富士也)

 法話

人間関係でも仏さまとの関係でも同じです。信じていないから、疑っているから、心を閉じているから、甘えられないのです。まかせられないのです。心が通い合わないのです。疑いをなくし、信じることができれば「あなたにまかした」と言えることができるのです。 私たちは自分の狭い見方で何事においても決めつけてしまうことがあります。ほんの一部分でしかないのに、それの全体ではないのに決めつけてしまう。そうするともう謙虚に知ろうとしないのです。「仏教とはこんなもんだ」と一部分だけ知り決めつけるともう謙虚に学ぼうとはしません。人間、一人ひとりいろいろな面を持っています。一部分だけを見て決めつけると誤解を招き悲しみを生むことがあります。決めつけるのではなく、「こんな面もある」また「こんな面もあった」とその人をもっと知ろうという姿勢で望みたいものです。見方を変えれば欠点が長所に見えることもあります。

6月の言葉と法話

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救いとは、私が私であってよかったと喜べることです。その人がその人のまま命が満足することです。

救いとは、良い果(自我の満足)を得ることではなく、どっちの転んでも大丈夫といえる確かな因を得ることです。

法話

どの宗教ででも救いを説きますが、はたして救い、救われるとはどういうことでしょうか? 一般には願いが叶ったことを救われたといいます。確かに願いが叶えばうれしいですが、叶う保証はないし、叶ったとしてもその後どうなるかわかりません。仏教では願いが叶う、自我の満足を救いとは言いません。良い果を得ることではなく、どっちに転んでも大丈夫といえる確かな因を得ることを言います。因とは生きる土台・支え・要・拠り所です。確かな因を得ることにより、どんな状況になっても、私が私であってよかったと喜べるのです。現実は変わらなくても、その人がその人のまま命が輝くのです。救いとは、自我が満足することではなく、いのちが満足することです。

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